ソーシャルメディアによってTribe(部族)が時空を超越する

『リリイ・シュシュのすべて』という映画をご存知だろうか。
今から10年前に生まれた岩井俊二監督の映画である。
今では誰でも知っている市原隼人や蒼井優のデビュー作でもある。

私はソーシャルメディアと音楽ビジネスのブログを書いているので
音楽一辺倒と思われるかもしれないが、実は学生時代映画を撮っていたりなどしていた
映画大好き人間なのである。

今回は映画『リリイ・シュシュのすべて』に登場するリリイ・シュシュの音楽プロジェクトとソーシャルメディアの関係について考えてみたい。

「リリイ・シュシュのすべて」という圧倒的な世界観

映画『リリイ・シュシュのすべて』はインターネット小説から始まった。
リリイ・シュシュなるアーティストのサイトがあり、そこには「このサイトは小説です」という但し書きがある。

今ではもう言われなくなったBBSにて岩井俊二監督が様々な人物になりきり
書き込みをしていく。そして、何より面白いのが一般のユーザもそのBBSに書き込みができるという点だ。

誰の書き込みが岩井俊二監督なのか、一般ユーザなのかわからない。
しかし、一般ユーザは岩井俊二監督が構築した世界観の中で、各々その世界観を理解した上で、自身も物語の登場人物として参加する。

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ある意味では非常にソーシャル的なプロジェクトで、新しい形だったように思う。

一般ユーザが物語の住人となり書き込んでいく中で、岩井俊二監督は巧妙に物語を紡いでいきある日突然、書き込みが管理人しか出来なくなる自体が発生する。

そこから管理人の独白という形でついに「リリイ・シュシュのすべて」の真実が明かされる。映画版ではこの独白部分を切り出した形で映画化され、物語の中でも途中途中に
一般ユーザの書き込みが現れ、18歳の私は映画の内容もさることながら、驚愕した記憶がある。それ以来、賛否両論はあるが、私の中でのマスターピースの映画になっている。

このインターネット小説、映画の中でキーワードとなっているのがリリイ・シュシュというアーティストだ。

これは岩井俊二監督と小林武史さんとSalyuが組んだユニットである。
映画の中では非常に神秘的且つミステリアスな存在として描かれ実際に楽曲も発売されていた。

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フィクションの中で作られたリリイ・シュシュというアーティストが現実世界に拡張し、その世界観までも圧倒的な熱度を保ったまま溢れ出した。

インターネット小説、楽曲、webサイト、映画で構築されたリリイ・シュシュというアーティストの世界観は徹底していて、バイオグラフィーやディスコグラフィー、リリイ・シュシュのバックボーンが描かれる。そこには実態を伴ったひとつのカリスマとして、まさにインターネット小説や映画で描かれたように現実世界に出現した。

そして、去年突如リリイ・シュシュの活動再開が発表された。
エーテルという映画のキーワードともなる楽曲名を携えて。

10年前に比べ、Salyuは圧倒的にメジャーになり、多くの人が認知する存在になった。
リリイ・シュシュのすべての世界に触れたユーザは10年という時空を超えて、全く同じ熱度でソーシャルメディア上で感嘆の声をあげた。

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2010年12月14日。中野サンプラザ。
そこにはまるで映画の中で描かれているリリイホリックと呼ばれる熱狂的なファンが集結していた。そして、映画で描かれた目印をつけた人がそこらじゅうにいた。

ソーシャルメディア上では、BBSで書きこまれていた内容が現れる。
フィクションであったはずの世界が10年の時空を超えて出現した。

アーティストが圧倒的世界観を構築すると時空を超える。
そして、ファンは変わらずその世界の住人にいつでも戻ることができる。

リリイ・シュシュとしてステージに立ったSalyuはリリイ・シュシュ名義の楽曲とSlayuとしての楽曲を混ぜながら歌った。

しかし、ライブ終演後のソーシャルメディア(主にツイッター)では非常に賛否両論の意見が凄まじく飛び交うことになる。

10年前と変わらないリリイ・シュシュとしての存在を期待していた人たち。
10年を経たリリイ・シュシュの今を受け入れる人たち。

そこには凄まじい熱度を伴ったファンの声が渦巻いていた。
10年前に一旦終焉したひとりのアーティストに対して、だ。

Tribe(部族)という概念を構築したリリイ・シュシュ

いま、音楽やアーティストの世界観自体をもユーザと一緒につくり上げる方法も増えてきた。それはソーシャルメディアのひとつの良いところである。
例えば、人間性や身近な人柄を伴うアーティストはソーシャルメディアによって、存在が近くなり親近感が湧き、人気を得る。認知を得る。そんな成功事例もたくさんある。

しかし、いま逆にアーティスト主導で圧倒的世界観の中にユーザを巻き込む方法を作り上げているアーティストというのは少ないように思える。

どのアーティストでもできるわけではないし、音楽というフィールドだけでは難しい部分もあると思うのだけど、ソーシャルメディアはフラットに一緒にユーザと創り上げるだけではなく、アーティストの世界にソーシャルメディアを用いてユーザを巻き込んでいく方法論もあるのではないかなあと思っています。

ソーシャルグラフを組み込む。twitterと連携する。ソーシャルメディア上に音源を設置する。そういうのも素晴らしいけど、アーティストの圧倒的世界観を構築し、ひとつの絶対的なTribe(部族)を形成する。

Tribeとは「年代や性別を超え、共通の趣味や興味、価値観で形成される部族」という意味で、トライバルマーケティングとは「Tribe(部族)ごとに最適化されたマーケティングを実施すること」です。余談ですが、僕の所属するトライバルメディアハウスもここからきてます。

セス・ゴーディンの『Tribes』によると、Tribes(部族)にはリーダーが必要と書かれている。
このリリイ・シュシュの中であれば、誰に当たるか。それはもちろん、リリイ・シュシュ以外に他ならない。ソーシャルグラフ上には明確なリーダーはいないし、必要ない。

しかし、語り手として、もしくはリーダーとしてその世界観を構築し、紡ぎ、描くストーリー性があればそれは大きな可能性を秘めているように思う。

そのTribes(部族)にユーザが参加する。住人になる。呼吸をする。
そういう使い方もソーシャルメディアにはあるような気がしています。

リリイ・シュシュが10年の時空を超えて、今もなお絶対的なTribe(部族)を形成しているように
そこにはファンの熱度も非常に高いので、ある種のユーザの思うアーティスト世界観と相違が発生したときに、攻撃的になってしまう危険性も孕んでいるが、それもひとつの武器であるように思う。

もちろん、それにはアーティストキャラクターや音楽性、webサイト、何よりアーティスト戦略が多分に関わってくるとことなので、誰でもというわけではない。ただ、ソーシャルメディアにはまだまだいろいろな使い方が眠っているように思います。

コミュニティとは全く違う意味でソーシャルメディアを使って(あくまで使って)Tribe(部族)を形成することは、ひとつの選択肢としてはありかもしれない。

このTribe(部族)はある意味、ソーシャル時代に欠かせないキーワードのひとつでもある。
業種業態を問わず、自社のTribe(部族)をいかに形成できるか。それは囲い込みとは全く意味が違う。そもそもユーザは囲い込まれたいなんて思っていない。

そのTribe(部族)には当然、大きい小さい、熱度が熱い低い、密度が濃い、薄いというのがあるのだけど、こと音楽というフィールドで考えてみた場合、Tribe(部族)は形成されやすいように思う。

重要なのは、囲い込むことではなく、ユーザの中に企業ないしアーティスト、世界観の『結晶』を生成できるかという点にある。

様々な方法で生み出された『結晶』(絆と言い換えてもいい)はそう簡単には消えない。
Tribe(部族)を形成させ、成功させるにはユーザの中に『結晶』を創りだすことで、熱度と密度を伴いそして、それはソーシャルメディアによって時空を超える。もしくは今を加速させる。

2011年現在、映画の公開が終わっても、BBSという名のインターネット小説では今もファンによって書き込みが続いている。リリイ・シュシュという世界の中で、ファンが呼吸し続けている。硬い結晶がそこには、ある。

最後に岩井俊二監督作品『リリイ・シュシュのすべて』の予告編を。
個人的には歴史に残る大傑作だと思います。


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