マーケターとしての思考パニックと思考ドオリのあいだ

マーケティングは多様化し、ありとあらゆる手法が生み出され、再開発され、僕らの日常に”刺さる”ようにブランドやアーティストの商品やメッセージをどう届けるかと日々悪戦苦闘、自問自答をしているわけですが、たまにふと思うことがあるのです。

僕らは強制的に揺さぶるような体験や経験を世の中に提供できているのか。

先日、とある知人たちとご飯を食べていて出てきた言葉が『思考パニック』でした。

2年ぶりに書くブログ(最後の更新は2016年!)なのでリハビリも兼ねてつらつらと書いていきますこと、ご容赦くださいませ。

■気持ちのいい情報だけで世の中は変わるのか?

マーケティングをしていればユーザーインサイトや仮説設定、ペルソナ、デモグラフィック、トライブなどを駆使してターゲットに気になってもらう、興味を持ってもらう、買ってくれる、ファンになってくれるといったマインド醸成やパーセプチョンチェンジを狙って広告やマーケティングを展開していきます。

世の中はターゲットの文脈に乗るように、ターゲットの興味範囲の中に、レコメンデーションがまさにそれですが、多かれ少なかれ「うん、興味あるよ」といった具合に「これが好きなら、きっとこれも好きですよね?」と新しい商品やブランドをおすすめしてくれます。レコメンド精度は日々向上し、その提案は概ねズレていないわけです。(自分の経験談も含めて)

しかしながら、「何かに圧倒的に強制的にわけのわからないものを見せつけられる」といった経験はどんどん少なっていっているように思います。それが「思考パニック」です。つまり、ちょっと何言っているか全然わからないんだけど、気になって忘れられないといった感覚。頭が整理できない、処理できないものに出会ってしまった感覚。

14歳の頃、初めてRadioheadの「KID A」を聴いたとき、ちょっと全然わからない。何を言いたいのかもわからない。脳が混乱し、処理に困る。でも、なんだか気になって仕方がありませんでした。

19歳の頃、初めてヤン・シュヴァンクマイエルの作品に触れたとき、もう本当意味わからない。ただただ、やばいものを見てしまった。好きとか嫌いとはそういう類のレベルを超えて、忘れられないものでした。

 

21歳の頃、広告業界を目指していたとき、広告でここまでのことができるのかと驚愕した日清カップヌードルの「FREEDOM」。ちょっともう広告なのかエンターテインメント作品なのか判別できない衝撃を受けたのを覚えています。

僕らはいつのまにか「思考パニック」どころか「思考ドオリ」のものに囲まれ、思考を停止し、感度を下げ、自分の周りに気持ちのいいものしか集めず、集まらず、世界がどんどん小さくなっていってはいないだろうかと思うのです。

そして、もうひとつ。この「思考パニック」は得てして10代~20代前半に訪れる確率が高いことです。もちろん、30代でも40代でも「思考パニック」は発動されますが、発動確率は10~20代前半のころは多いのではないかと思います。

それは青春と呼ばれるあの時代特有の感受性や世界の捉え方が大きいと思うのです。年を重ね、社会を知れば知るほど、できることできないことがわかって、社会とはこんなものである。という抑制能力が高まり、感度も下がり、「思考パニック」はただただよくわからないものという処理のされ方をします。

■思考パニックはエンターテインメントだけに起こるものではない

もちろん、先に例をあげたRadioheadやヤン・シュヴァンクマイエルは、音楽であり、映画/映像作品なわけですが、アートを筆頭にエンターテインメントと呼ばれるものには過去現在未来ともに「思考パニック」を発動させるチカラを持っています。

しかし、「思考パニック」は必ずしもエンターテインメントに限ったはなしではないと思うのです。それが例えば、新興のSNSであったり、V TuberやYouTuberにも同じものではないでしょうか。

少し前、Mix Channelが流行ったとき、メインで活用しているユーザー以外はこう思ったものです。「これはなんだ!?」と。カップルがイチャイチャした動画を上げている。それの何が面白いのか。また、V Tuberも同様に「なぜ、二次元にここまで熱狂できるのか」と考えるわけです。しかし、考えてもわからないんです。言葉を紡ぎそれっぽい言葉でユーザーに受け入れられている理由や流行っている理由を語ることはできるでしょう。

しかし、それは極めて表層的な話で本当は「思考パニック」が起きているのです。カルチャーが生まれるとき、そこには必ず「思考パニック」が起きています。なんだかわからないけど、猛烈に気になるもの、そんな出会いは少なくとも僕には減ってしまいました。新しいカルチャーはわかりやすいわけがない。混乱と混迷がセットで生まれるものだと思います。

わかりやすいもの、考えなくていいもの、一目瞭然なもの、シンプルなもの。どれも大切なものですが、それだけに囲まれていると世界は大きく変わらないと僕は思うのです。

この「思考パニック」に出会う頻度と感じられる感度を磨くことは、広告やマーケティングの仕事をしている人間は高めなくてはいけない能力だと考えます。

■「思考パニック」の中に新しいカルチャーが隠れている

『骨董品店で買った錆包丁を18時間手作業で研いだ結果』という動画を上げているYouTuberをご存知でしょうか。タイトル通り、骨董品店で買った包丁を18時間研ぐ。ただそれだけの動画です。それが1800万回を超える再生回数を叩き出しています。

 

 

見ていただければわかる思いますが、「思考パニック」が発動します。ちょっと全然わからない。なぜ、これが1800万回も見られているかもわからなければ、なぜこのチョイスをしたのかも全然わからない。完全に脳が処理できません。

しかし、世界のニッチを集めたらこれだけのニーズもあるわけです。同時に僕らはこの感覚を養わければいけないと感じています。「思考ドオリ」のマーケティングアプローチは確かに間違いではないけれど、強烈に何かを刻み込むことが難しい

自分の人生を振り返ってみても、「思考パニック」が発動したものは今も長く記憶に留め、自分の人生に大きな影響を及ぼしていたりもしますそして、社会を変え、世の中を変えてきました。

広告/マーケティングの担い手としても、一般消費者としても「思考パニック」を大事にしたいと思っています。少なくとも僕はたくさんの「思考パニック」によって自分という土台を作ってきました。

世の中の流れや時流、ターゲットの情報取得行動や消費のされ方はマーケターとして抑えなくてはならないし、それにマッチしたマーケティングコミュニケーションを描くことも重大な責務でもあります。

だけど、耳障りのいい、肌触りのいいだけの広告やマーケティングは本当に誰かの心に刻むことはできるのだろうか。そのブランドやアーティストは刹那的な消費のされ方をされていないだろうか。マーケターとしての思考パニックと思考ドオリのあいだで今日も「思考パニック」を起こせるような仕事をしたい。

そんなことを考えながら、目の前の仕事を誰かの人生を変える一瞬をデザインできればと思っています。最後まで読んでいただきありがとうございました。